1日静岡、2日浜松、3日静岡出張でした。
師走です。
12月7日、快晴、風が強い。
漬物の準備もほぼ終わった。
といいながら、母の手伝いをする間もなかった。
「今年は大根がたくさんできて、方々(ほうぼう)に配ったけれど、
田圃にもたくさんまいた」と母のいう。
12月9日、早朝の中央アルプス。
白い月がぽっかりと浮かんでいた。
三脚を持っていかなかったので、手ぶれを起こしているけれど、
日の出前の幽玄とした山の姿が只ひたすらに美しかった。
12月14日、東伊那の火山(ひやま)から見た中央アルプス。
我が家からは約10km北東に位置する。
ほんの少し位置が違うだけで、山の形が大きく変わるから不思議なものだ。
今年は雪が遅い。
11日の午後には雨がかなり降ったが、雪にはならなかった。
その日、田楽座の駒ヶ根公演が行われた。
お蔭様で、駒ヶ根文化会館大ホールに約600人の人々が集まった。
日本各地の大地から育まれた郷土芸能を華麗な舞台に現してくれた。
「楽しさ、美しさ、力強さ。」良かった。
今月は殊更にスケジュールが過密である。
出張に、会議に、忘年会に、自治会に、講演会に、・・・・・。
「ゆったりとしたときの流れに身を任せながら・・・」などと、思ってみても、
今の時勢は、あらゆることに変化とスピードを要求される。
農業ですら、時代の流れの中で、大きく翻弄され続けられている事に変わりは無い。
18日午後から降り出した雪は、本格的な雪降りになり、
いよいよ里も初雪となった。
そのまま19日も雪は降り続き、名古屋でも10cmほど積もったという。
私は17日長野市で商談、18日は名古屋で商談、19日は東京で会議とたて続き、
20日は、心配しながらの帰宅であったが、
お蔭様で、思ったより積雪は無く、一安心だった。
休耕田に蓮が植えられた田圃は、この日も全面凍結し、
立ち枯れた蓮の茎が氷に突き刺さっている。
22日は冬至。
夜の長い日は今日までで、明日からは昼が長くなるのだと思うと何となく嬉しく感じる。
27日明け方より降り出した雪は、標高の高い場所を再び銀世界に変えた。
とはいうものの、日中は例年に無く暖かい日々が続いている。
お蔭様である。
私は24日25日と東京・千葉に今年最後の出張をした。
年の瀬、クリスマスとはいえ、都内の渋滞は予想以上に激しかった。
せめてクリスマスには停戦を、平和をと願っていたが、イランでは大地震。
死者5000名、10000名、いや20000名を越えるとか。
日が経つにしたがってその数は増え続けている。
ご冥福を祈るしかない私です・・・・・・。
大晦日、前日より書き始めた年賀状のあて先。
ひたすら書き続けて約300枚。
元旦には着きませんので、ごめんなさい。
今年もいろいろありました。
「近況報告です。本年の県外への出張は118日間。丸まる1日の休日は
34日間。9月までの営業実績は昨年を上回っていましたが、9月末以降変化が起こり、
難しい時代に入った事を実感しつつあります。また、本年も様々なことが起こりました。
年末年始は風邪をこじらせて1週間ほど寝こみ、これが原因で古傷が疼きだし、
結果5月には諏訪日赤に1週間ほど手術入院(この間に長男は浪人を決めました)。
1週間の入院は人生を振り返るのに十分な時間でした。春から駒ヶ根市の主催した
「花と緑のサポーター養成講座」を受講、平行して伊南4市町村の合併に関する
「新市将来構想委員」として参加、以後、「みどり会議」、「中心市街地活性化委員」と
して街造りに夢(提言)を述べてきました。秋に催した同級会では、景気の話、肥満な
ど健康管理の話、子供の進学の話、親の介護の話などに話題が集中しました。
そういった中、お蔭様で人生50年の大台に入りました。何が起こるかわからない時代
です。日頃のご好意に感謝するとともに、健康で元気に過ごされん事を祈念して、それでは皆様、よいお年をお迎えくださいませ。」
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